僕には彼女がいない
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クリスマスイヴ
クリスマスイヴ@Japan(12/24)は恋人と過ごすものという考えが日本で定着したのはいつからなのでしょうか
(ちなみにロシア正教ではグレゴリオ暦ではなくユリウス暦を使っている関係上クリスマスは1/7です)
心底どうでもいいイベントです
それにも関わらずそれに乗じて僕はアドベントカレンダーに今日までに恋人を作るという風に書きました.しかしできませんでした
僕の考えでは全てのことには意味があって,全ての問題には解決策があります...少なくともそのように考えることはできると思っています
僕が恋人とクリスマスを楽しめなかったことにも意味があり,そしてそれが問題なら解決策があるはずです...少なくともそれを手探るというのがこの記事の趣旨です
この記事は僕が成長をする記事です
恋人がいないという意味
僕に恋人がいないというのはどのような意味を持つのでしょうか
まず恋人がいるということの意味を考えてみます
恋人がいると他者から承認されます...とされていそうです
しかしそれは十分でしょうか?
現代では恋人がいてもなお承認欲求を求め,SNSで開示をする人が多くいます
いわゆる匂わせですね
ということは恋人がいれば心が満たされるというわけではないということです
じゃあ結局の所,恋人がどのような装置かと言ったら社会的なステータスを獲得するためのものか性欲を紛らわすためのものでしかないと僕は言えると思います
恋人がいることで他者に対してマウントが取れるとかまぁ性処理ができるだとか
これは別に異性間かどうかは問いませんね
しかし,これはどちらも代替手段があります.じゃあ恋人がいないということはその目的の1つの手段が欠けている以上でも以下でもないと言えるでしょう
恋人という存在
そもそも恋人ってなんでしょう?それは個人的なものなんでしょうか?もしそうだとしたら他人に見せるものではないですし,それが公共的なものならばそもそも恋人という個人間の関係ではなくてただの他者ではないのでしょうか?
僕は誰かを自分だけのものにするほど傲慢ではなく,またもし自分だけのものに出来たとしてもそれを公共物として消費するのはどうなのか(出来たらそもそもブログにしないということです)という結論に至りました
ということで恋人という存在がいるかどうかそのものは僕には意味がなく,また存在を明かすこともないのでそもそも恋人について僕が話すという意味がないです
なので恋人がいないということに関して話すのはナンセンスなんでしょうか?では僕にないのは何なのでしょうか?
You are (not) problematic
僕に恋人がいないことは問題なのか
いいえ,違うと思います.問題なのは自分自身です.社会の目を,恋人の存在を気にしている自分が問題だということです
僕という存在が社会という目を自分の中で構築し,その中でしか自己を確立できないことそれが問題です
社会という架空の存在に潰されている現状をぶち壊すにはどうしたらいいんでしょうか...?
自然
そう僕が社会になってしまえばいいんです
これまでの僕は社会と自分を分けて考えていました
他人と僕は違う...僕は社会から独立した人間だ...
と
古来から日本には自然を人間と区別しないという考えがあったらしいです.それは社会という「自然」もそうなのではないしょうか?僕も社会の一部でしかないのです
だから問題を解決する方法は僕が社会になること,それを認めることかもしれない
社会不適合者が社会になるにはどうしたらいいんだろうか
...これが僕の結論です!!!!
僕の部屋はもう扉で社会と分離されていません(ドアの下にドアストッパーとして魔剤の缶が挟まっています)
冬は寒いし,夏は暑いです
これから僕は架空の社会ではなく実際の社会,自然と向き合っていきます